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●牛鍋ブームが起こった明治維新 明治維新になり、文明開化にあこがれた人々は、牛鍋をその象徴として店に押しかけた。明治五年(1872)、明治天皇が牛肉を召し上がったことも、このブームに拍車をかけた。明治十年(1877)の東京府下では488軒に牛鍋屋が増えたという。仮名垣魯文は『安愚楽鍋』で、「士農工商、老若男女、賢愚貧福おしなべて、牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と書いた。 牛鍋人気を受けて、東京では軍鶏屋もあちこちに誕生した。明治中期に平出鏗二郎が著した『東京風俗志』には「鳥肉は軍鶏、かしわ、あひる等を主とす。獣肉は牛肉を主とし、豚肉これに次ぐ。…中略…飲食店・料理店・酢・汁粉・蕎麦粉・天麩羅・蛤鍋・牛肉・軍鶏・鰻等をはじめ、和様の料理屋に至るまで夥しきこと眼を驚かすばかりに、浅草・上野の広小路などには檐を列べぬ。…中略…軍鶏屋・牛肉屋・到る処になきはなく、或いは相兼ぬるもあり」とある。 |
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●柳田國男かく語りき 「やきとり」の歴史に目を向けると、民俗学の祖・柳田國男は『明治大正史 世相篇』で「日本は鶏などでも明治の世になるまで…中略…或いは闘鶏が普通の日の娯楽になってから、始めてシャモの味などを知ることになったのかも知れぬ。兎に角に一時は鶏を食おうとする人の為に、互いに遠方の馴染の無いものと、取替えさせる職業さえできたのであったが、今ではもう野菜作りなどと、ほとんど同じ気持ちの生産になってしまった。狗(犬)とよく似た番兵的任務の、必要が無くなったのも原因であろうが、主たる理由は肉需要の増進、ことに今まで食っていた分が乏しくなったことであった。足利時代の日記類を読んでみると、鳥は雁、鴨、菱食から雉、山鳥、鳩、鶯に至るまで、実に多くの種類と数とを、食べる家では食っていたのもある。鹿や兎の類もまた盛んに捕っていた。ただ家畜には手を着けなかったというのみで、我々は決して精進では無かった」と記している。 |
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●焼鳥屋のはじまりは幕末頃 明治二十六年(1893)に発刊された松原岩五郎著『最暗黒の東京』には「居酒屋の前には焼鳥、焼鯣(やきするめ)、炙(やき)唐もろこしと匂をもって道を塞ぎ…中略…おでん、煮込、大福餅、海苔巻、稲荷鮨、すいとん、蕎麦ガキ、雑煮、ウデアズキ、焼鳥、茶飯、餡カケ、饂飩、汁粉、甘酒等の屋台店はもっぱらにこの彼ら夜業の車夫によって立つもの。…中略…この類の露店午後十時の通行において新橋より万世橋までの総計かつて八十六個を算えき…中略…焼鳥―煮込みと同じく滋養品として力役者の嗜み喰う物。シャモ屋の庖厨より買出したる鳥の臓物を按排して蒲焼にしたる物なり。一串三厘より五厘、香ばしき匂い忘れがたしとて先生たちは蟻のごとくに麕って賞翫す」とある。 この時代のやきとりは、鳥肉だけではなく、牛や豚の臓物もあったというから、「やきとり」の材料を鶏肉、豚肉、果ては馬を使うのがおかしいと目くじらをたてるのは変なことかもしれない。「目くじら」ならぬ「山くじら」が当初からやきとりの材料だったのだ。 |