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【鎌倉時代〜戦国時代】

●中世、鳥の代表といえば雉子

 野鳥の中でも雉子は別格の存在感を持つ。
 14世紀に吉田兼好が著した『徒然草』百十八段には「鯉ばかりこそ、御前にても切らるるものなれば、やん事なき魚なり。鳥には雉、さうなきものなり」と書かれている。また、15世紀の『四条流包丁書』にも「鷹の鳥には如何なる白鳥なりとも上をすべからず。雉子の鳥に必ず限るべし」「ただ鳥とばかり言うは、雉子のこと也」とある。
 室町時代の故実書『海人藻芥』には、「大鳥は白鳥、雁、雉子、鴨、この他のものは供御に備えずなり。小鳥は鶉、霍、雀、鴫、この他のものは供御に備えずと云々」と記され、天皇の食事にはこれらの鳥しか出されることがなかったようだ。
 室町時代の料理書『四条流庖丁書』によれば、鷹狩りで手に入れた雉子は「鷹の鳥」と呼ばれ、「雉子の鳥に必ず限るべし。何にても鷹の取りたる鳥をば賞翫勝りたるべし。鷹の鳥を人に参らする時には焼物より外にすべからず」とあり、調理にかかる前に雉子を主人に見せ、そのあと、ご馳走となった。1528年に成立した『宗五大艸紙』では「鷹の鳥のくいよう。春の鳥にはなんてんの葉をかんながけに敷きて焼鳥にして出し、亭主鷹の鳥のよし申されば、箸を手に持ちながらゆび二つにてつまみてくうべし」とあり、「鷹の鳥」の作法が確立していたことが分かる。
 とにかくも、この時代の鳥の王者は、雉子だったようだ。

●中世の鳥料理

 「干鳥」「膾」「焼物」「羹」「煮物・煎物」などの鳥の料理が中世の料理書に登場している。
「干鳥」は、雉子の肉を塩をつけずに干して、削ってたべるもの。
「膾」は、生で食べる刺身。身を造りにし、醤をつけて食べた。荒巻して置いていた鳥を湯に入れ、さまして薄く引き蓼酢で食べることもあった。
「焼物」は、身の中に少し赤身が残るように水をかけ、塩を振って焼く。女性には直垂、男性には鳥の足を出す。
 串焼きで出されることもあった。鳥の直垂を筋交いに切り、串に刺してあぶる。中の汁を押し出して胡桃をかけて乾けばまたあぶる。
「羹」には鳥あつものがあった。鶴や白鳥、雁などを酒塩や味噌の汁に入れ、薬味を添える。
「煮物・煎物」には「雁の皮煎」があった。雁や鵠(うぐい)、菱喰(ひしくい)などの皮をキノコとともに煎る。

 鎌倉時代初期の武士は質素な食事をとっていた。しかし、時代を経るに従い、力をつけてきた武士たちは、次第に豪華な食事を身につけていくようになった。また、室町時代になると、肉食の記録が野鳥を除いてみられなくなる。この時代の日本人は、肉を忌むようになっていたようだ。

※中世の料理書の記述はこちら

●南蛮人がもたらした肉食文化

 室町時代の肉食忌避に風穴をあけたのは、鉄砲とともにヨーロッパの文化を運んできた南蛮人たちであった。今まで禁止されていた肉を喜んで食べる南蛮人たちの姿は、日本人に大きなショックを与えた。日本を訪れた宣教師や商人の影響で肉が日本人の食卓に並ぶようになったものの、のちに迎えるキリシタンの禁圧と鎖国が行われるようになり、再び肉食は暗い時代を迎えるようになった。

 秀吉はキリシタンの宣教師に有益な家畜である牛や馬を食用にすることを尋ねている。しかし、家畜を食べるという肉食は日本の農業経済をゆるがし、キリシタンの日本侵略の一手段として受け止められた。そのため、キリシタン弾圧が始まると、「肉食する者はキリシタン」という考え方が一般に行き渡り、肉食の習慣はすたれてしまった。

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