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【江戸時代】

●鶏がでてくる「料理物語」

 寛永二十年(1643)の「料理物語」には鶏が食材として挙げられている。※「料理物語」の記述はこちら
 さまざまな鳥の料理が紹介されてある中に「鶏。汁、煎り鳥、さしみ、飯にも、玉子はふわふわ、ふのやき、みのに、丸に、蒲鉾、そうめん、ねり酒、いろいろ」の文がある。さまざまな汁物の具に使われたり、醤油や酒などで味をつけて煎りつけた料理や刺身や鶏飯として食べられたようだ。
 「焼鳥」として山鳥、鸞(ばん)、けり、鴫、「串焼」として雁、鴨、鷺、五位鷺、雲雀、水鶏の名が挙げられている。しかし、この時代の「焼鳥」は小鳥を開いたものや、肉の小片を焼いたもので、「串焼」の方が現代のやきとりに近いものであったようだ。

 延宝2年(1674)の『江戸料理集』には「焼鳥には鴫類、うずら、ひばり、小鳥類、雉子、山鳥、、ひよ鳥、つぐみ、雀、鷺類、鳩、けり、鷭(ばん)」18世紀の『伝演味玄集』には「焼鳥に成る可き品

つぐみ、うずら、むな黒、きょうじょう、黄脚、ぼと、雲雀、鶴、雉子、鴫、山鳥、尾長、ばん、羽しろ、雀、さく、はしき、あいさ、あい黒」の名前がみられる。
※詳しい資料の記述はこちら

 『合類日用料理抄』(1689)には「焼鳥」の調理方法が描かれている。「鳥を串にさし薄霜ほどに塩をふりかけ焼き申し候。よく焼き申す時分、醤油の中へ酒を少加え、右のやき鳥をつけ、一へん付けて醤油のかわかぬ内に座敷へ出し申し候。雉子斗は初めよりかけ汁付けて焼き申し候」とあり、江戸時代の初期には焼鳥の料理法はほぼ完成していたようである。

 また、鶏を用いた料理を「南蛮」と呼ぶこともあった。鶏を大根と丸のまま煮たもの(『料理物語』)、内臓を除いた鶏に米粉をつめたもの(『合類日用料理抄』)がそれであり、鶏を食べる習慣は南蛮人の手でもたらされたようだ。

●鶴、鴨そして鶏

 江戸時代、武家の間で最上の鳥とみなされていたのは「鶴」であった。その優美な姿のためか、茶会や饗宴の席に鶴が登場するようになる。家光の代から「鶴御成」といって鷹狩りで捕った鶴を朝廷に献上し、残ったものは大名たちに贈られた。宮中では、将軍家から贈られた鶴を清涼殿の前で行われる「鶴の庖丁」で天皇に献じられた。
 その味の方はというと、角田猛氏の『いかもの』(ダヴィット社刊)によれば「煮ても焼いても不味い」ものだったという。
 庶民に愛された鳥肉は「鴨」だった。井原西鶴は『日本永代蔵』の「祈る印の神の折敷」や『西鶴織留』の「津の国のかくれ里」に鴨の料理を登場させている。贅沢な接待の場での料理だが、庶民の生活に鴨が身近な存在であったことが分かる。「人をそしるは鴨の味」「兄弟喧嘩は鴨の味」「いとこ同志は鴨の味」などのことわざにみられるように、思いを抑えきれない、誰もが食べたくなる味のようだった。
 鶏や軍鶏も文学作品に登場する。『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』「七段目」のセリフに鶏が登場する。吉良方の目を晦ますため、祇園で遊興にふけっていた大星由良之助は、敵の間者から蛸をすすめられる。そのあと、「これから鶏締めさせ鍋焼きしょ」というのだ。このセリフからも、元禄時代の日本では、鶏が食べられていたことがわかる。軍鶏が登場するのは『三人吉三廓初買(さんにんきちざくるわのはつがい)』で、堂森が軍鶏ネギを買ってくる場面がある。「軍鶏で一杯」というセリフも世話物に多くみられ、鶏や軍鶏の鍋はポピュラーとなってきた。

●南蛮人が運んだ肉食文化

 室町時代の肉食忌避に風穴をあけたのは、鉄砲とともにヨーロッパの文化を運んできた南蛮人たちであった。今まで禁止されていた肉を喜んで食べる南蛮人たちの姿は、日本人に大きなショックを与えた。日本を訪れた宣教師や商人の影響で肉が日本人の食卓に並ぶようになったものの、のちに迎えるキリシタンの禁圧と鎖国が行われるようになり、再び肉食は暗い時代を迎えるようになった。

 秀吉はキリシタンの宣教師に有益な家畜である牛や馬を食用にすることを尋ねている。しかし、家畜を食べるという肉食は日本の農業経済をゆるがし、キリシタンの日本侵略の一手段として受け止められた。そのため、キリシタン弾圧が始まると、「肉食する者はキリシタン」という考え方が一般に行き渡り、肉食の習慣はすたれてしまった。

●肉を手に入れるなら「ももんじ屋」

 文化・文政時代になると、江戸には獣店(けものだな)が増えてきた。鎖国されていたとはいえ、オランダとの通商は残されており、はじめは蘭学者たちの間で行われていた肉食が次第に広まり、武士階級にまで浸透してきた。獣店は「ももんじ屋」と呼ばれた。「ももんじ」とは化け物のことで、それらの店の前には「山くじら」と書かれた看板を出していた。安藤広重の『江戸名所百景』の「びくにはし雪中」にはその風景が描かれている。
 これら肉食は「薬喰」と呼ばれた。滋養のための肉食であったものの、肉の味は忘れられない人物も多かったようだ。

 江戸時代の百科事典である『和漢三才図会』と『本朝食鑑』の「鶏」「豚」「牛」「馬」の記述を別ページに載せた。迷信に近いものもあるこれらの内容から、江戸時代の「鶏」「豚」「牛」に対する意識を感じて欲しい。
※『和漢三才図会』『本朝食鑑』の「鶏」の記述はこちら
『和漢三才図会』『本朝食鑑』の「豚」「牛」「馬」の記述はこちら

●幕末のやきとり

 江戸時代には、神社の参道で焼鳥が売られていた。米作の妨げになる雀を中心に焼鳥にしていた。京都の伏見稲荷や雑司ヶ谷の鬼子母神では雀の焼鳥が評判となっていた。
 若月紫蘭が著した『東京年中行事』「雑司ヶ谷鬼子母神会式」には「このお祭の名物というのは、平生からも名物である小鳥の雀焼の外には、里芋の田楽、紙製の蝶、萱の穂製の梟などがそれで、何ずれも境内に至るまでの長い道の両側で盛んに客を呼んでいる」とある。

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