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| 「蛙」の詩で有名な草野心平氏は、明治36年、福島県石城郡上小川村に生まれ、地元の中学校に入学するが、四年で退学となり、16歳で上京。慶応義塾に進むが中退し、18歳で上海へ向かい、アメリカ系ミッションスクールの嶺南大学に入学する。21歳で嶺南大学日本語講師となるが、排日運動が激化したため、翌年に帰国する。新聞記者などをつとめる。 昭和6年、麻布十番で焼鳥屋台「いわき」を開店した。 翌年、店を畳んで実業の世界社に入り、記者生活を営むが、その中で詩誌や詩集を発刊。昭和16年には中国に渡るが、敗戦で昭和21年に帰国し、翌年、貸本屋「天山」を開く。昭和25年、一連の蛙の詩により「第1回読売文学賞」を受賞し、日本文芸家協会理事となった。 昭和27年、文京区に居酒屋「火の車」を開店、昭和32年には新宿にバー「学校」を開いている。 昭和32年に日本ペンクラブ理事、昭和45年「第21回読売文学賞」、昭和52年に勲三等瑞宝章、昭和58年に文化功労者、昭和62年に文化勲章などを受け、昭和63年11月12日に急性心不全で永眠した。享年85歳。 |
| ●草野心平の自伝より当時の様子を知る 「ある日、上目黒のガード近くの原っぱのなかに屋台が一つほったらかしてあるのに気がついた。埃と泥まみれのその古ぼけた代物を満見た途端、私はこいつでやきとり屋をやろうと独りぎめした。…中略…天平(弟)が、赤坂溜池にあるやきとり屋は凄くはやっているから『兄さん一度行ってみるといいな』と注進した。…中略…私は早速弟子入りを申込んだ。…中略…私は半年ほど毎日そこに通った。やきとりといっても無論豚の内臓のことで、タンとかガツとか子袋とかハツとかその他、適当に切ったのを串に刺した。…中略…私のタレは結局自分の創作であった。あとで高村(光太郎)さんが方々の屋台を試みてくれたけれど、草野君ところのタレが一番うまい、と言った」 「私の場所は麻布十番の安田銀行前ときまりテキ屋連中にもわたりをつけた。いよいよ開店である。屋号は『いわき』。これは磐城岩代の『いわき』で、自分のふるさとの名を屋号にするごくありふれた手合いである」 ※『草野心平 わが青春の記』(日本図書センター)より |